深沢俊太郎

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《醒世姻縁伝》研究!
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深沢俊太郎の部屋
Shuntaro Fukasawa
「醒学」(醒世姻縁伝研究)


■醒学一号「《醒世姻縁伝》の勧め」
1)はじめに
2)凡例
3)弁語(序文)
4)後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
5)再販後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
6)醒世姻縁伝の勧め

5)再販後記:
再 版 後 記(河南本P960)
深沢俊太郎 訳
 本書の初版から十年余りの間に、《醒世姻縁伝》に関する研究は、新たな展開をみた。1991年11月、中州古籍出版社は、張清吉の《醒世姻縁伝新考》を出版、1992年、《文史知識》(第二期)紙上には、万建清が、60年来の《醒世姻縁伝》研究状況についての概要論文を発表した。筆者が収集したのは、80年来発表され、散り散りばらばらになっていた各種研究論文で、40数篇にもおよんだが、相変らず、研究テーマは、《醒世姻縁伝》の作者はいったい誰か、という問題をめぐるこの一点に焦点が当てられていたのである。ある文章は、胡適の見方に賛同し、蒲松齢の作とするもの、また以下のように新たな視点からもの申す者も少なからずあった。

1) 章丘人とする説:《醒世姻縁伝》は、天啓、崇禎時代の山東省章丘のある文士の作であるという説。しかし、具体的に人名を挙げてはいない。
2) 丁耀亢という説:丁耀亢(1599〜1669年)字は西生、号は野鶴、また、紫陽道人、木鶏道人、橡?山人、遼陽鶴などとも号し、山東省諸城の出身。幼少の頃より才知優れ、自由奔放、超然洒脱の人。清の順治中に貢生となり、容城の教諭に選出される。浙江、?南地区の名勝旧跡を広くめぐり廻った経験を持つ。晩年は故郷に帰り、隠居生活をし、著作に専念した。康煕乙己(1665年)に《続金瓶梅》を書いたことで、罪に問われ、牢獄につながれたが、友人の助けを得て赦免され、故郷に戻り、仏門に入るものの、ウツウツとした生活は変わることがないまま死んでしまう。その生涯に渡る著作は非常に多く、今日目にすることが出来るのは、《丁野鶴集》など20数種に及ぶ。中でも有名なのが、小説《続金瓶梅》である。

 この丁耀亢について、系統立てて研究したのが張清吉である。彼は、数年間にわたって、実地調査を行い、文献を詳細に調べ、二十余万字もの専門書を書き上げた。丁耀亢の家柄とその生涯、思想と道徳観、気質、創作の才能と作風など四つの面から、詳しく論証し、丁耀亢が《醒世姻縁伝》の作者であることを提起した。

3) ??西という説:??fu2西(1590〜1676年)。名は応寵、字は思退、晋薔、号は澹圃。“木皮散客”と自称。山東省曲阜出身。明末清初の民間の謡いもの、俗曲、俗謡などを作る著名な“鼓詞”作家であった。崇禎時に県令、部官などを勤めたことあり、任期中は善政を多く行なった。順治八年には、刑部郎中になり、翌年郷里に戻り隠居。康煕拾五年に死ぬ。孔尚任に《木皮散客伝》なる作品がある。

 この??西説を提唱しているのが、徐復嶺である。彼は1990年〜1992年の間に、《済寧師専学報》の紙上で、四篇にわたる研究論文を連載した。また彼は、東嶺学道人と環碧主人ともに??西の変名であるとも推断した。

4) 河南人とする説:筆者は《醒世姻縁伝》初版のあとがきに、この河南人説を提唱した。この後、雑事に追われ、踏み込んだ研究を続けることができなかったが、我われは、本小説中、唯一、実名で登場する李粋然の名から、《醒世姻縁伝》の作者を探り出すことも可能性のある糸口である、という考えをなくしたわけではなかった。孫楷第は、かつて李粋然が済南道を勤めたことを例にあげ、《醒世姻縁伝》の出版年代を崇禎から康煕年間であることは考証したが、残念ながら彼は、このことから、更に一歩進めて、本書の作者を探求していくことをしなかった。

 筆者は、李粋然生涯の歩み、事跡を追って行った中で、彼が仕官し、赴任したところすべて、小説中で言及されていることに気が付き注目した。特に、第28回に見える五吉、万泊、徘徊、冶陶、猛虎など翼南の村々の名は、見聞きしたこともなく、典籍から引用しようにも出来ない地名であることだった。この中の、徘徊や冶陶はどう贔屓目に見ても、山奥深く、辺鄙な田舎の山村のうちに入るであろう。しかし、小説中では、この山村の周囲環境、風俗習慣の描写すべてが実情に符合しているのである。しかも、これら小さな村々は、李粋然がちょうど翼南から山西の黎城へ行く際には必ず通らねばならない地区であり、この地に身を置いたことのない者には、このように実情を書くことは不可能である。蒲松齢も丁耀亢もこの地区を訪れたことはなく、構想することはまず出来ないはずだ。このことも河南人説を提唱する根拠の一つとして補っておきたい。

 一つ提起しておくだけのことはあることとして、胡適が30年代から《醒世姻縁伝》の作者に関する考証を始めて以来、六十年もの間、諸説紛々、一致した結論を見なかったが、これは考証の方法がいずれも大同小異であったということである。つまり、まず一人の作者を提唱した後、作者の思想、経歴を証明し、そのことから《醒世姻縁伝》のような小説を書ける人物を、またその作者の他の作品中から作風、創作手法、プロット、方言の使い方などから《醒世姻縁伝》との類似点を挙げて考証し、その作者こそ《醒世姻縁伝》の作者であると主張したことにある。筆者が思うに、別の考証方法によって、新たな突破口を見出なければ、《醒世姻縁伝》の作者は、相変らず謎のままで終始しよう。なぜなら、従来の考証方法で得る結論は、あくまでも憶測にすぎないからである。


 本書は80年代初め頃にまとめあげたが、諸事情あって出版時には原書にあった弁語、題識、評語及び徐志摩の序、胡適の考証、孫楷第の考証に関する手紙などはいっさい省いてしまい、原文にも大なり小なり手を加えた個所もあった。今回、再版にあたり、省いた内容を補い、初版での誤字を改め、原書に立ち戻り、原書本来の姿を保った。 読者にとっては、本書の全貌を理解する上で便利であり、また、本書を研究する者にとっては、資料すべてが揃った版本として役立つであろう。なお、初版の序と後記を一字たりとも改めなかったのは、歴史の事跡として留めておくためである。
※童万周 1996年8月

※訳者注:

 童万周とあるが、これは三者連名の筆名である。
その三方とは:
童吉明、張万?、周樹徳
の三氏。

 この三氏の名前から枠で囲った一字を取り、筆名としたものであることを記しておく。
私は鄭州で、それぞれ三方にお会いする機会を得、当時、鄭州に一ヶ月滞在し、主に張万鈞氏から直接教えを受けた。それ以来、張万鈞氏を師と仰ぎ、十数年経た今もなお、書信でのやりとりをしながら、張老師と呼ばせてもらい、教えを乞うている。未訳であった凡例、弁語に加え、後記、再後記の日本語訳にどうやらこぎつけることができたのは、すべて張老師のお蔭である。


訳者注にある「河南本」とは、河南省鄭州にある中州古籍出版社発行の《醒世姻縁伝》(童万周校注)を指す。

深沢俊太郎

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