「京丸牡丹」という言葉がある。ボクが三十代の初めころだったろうか、遠州森町にある細君の実家を訪ねたときだった。甥っ子の小池直樹から遠州七不思議なる話を聞かされた。不思議物語の、その七つが、何で、どんな話、だったのか、今はもう、すっかり、忘れてしまった。しかし、その中の一つに「京丸牡丹」というのがあった。直樹の説明によると、その話はこうだ:
「京丸牡丹というのは、六十年に一度咲く花の話。森の奥深くに咲くその花は、誰もその咲いている処を見たことがない。大きな、とても大きな、一説には、唐傘大の花が川を下って来る。しかし、花の存在は認められるものの、やはり何処に咲いているのやら、不明、謎」という、不思議話だ。
“六十年に一度咲く”、“存在は認められるものの、誰もその咲いている処を見たことがない”というところに、ボクは引きつけられた。
誰でも人は、みな「花」開く一時がある、とは云う。しかし、おおかたは、世に知られず、人に知られることなく消え去って行く。何も、人に知られることが、イイ、とは、一概に云えないのだろうが、才能を持ちながら、世渡りが上手に出来ず、結局、貧しく、つつましく、ひっそりと、生きていた“人”が、ボクの身近に居たことを、書き残しておくのも「知ってしまった者」の責任だ。本岡先輩から再度来た投稿要請を機に、“その人”のことを書き留めておこうと、ふと思いたった。これが筆を執ることにした動機である。
“その人”青木昌三という人物を、ボクが知ったのは、昭和四十九年(1974年)ごろ、出版社の老舗『評論社』の当時の編集長、津山三郎氏を通じてだった。今見れば、挿絵を除いて、本の内容は、まったくの赤面ものだが、ボクが初めて世に出した「こんなとき中国語でどう言うか」という本のその挿絵を描いてくれた“その人”だ。逢って、たちまち意気投合! ボクらの付き合いが始まったのは、その日から間もなくであった。電話もテレビもラジオもない茅ヶ崎の海辺にわりあい近い団地の中の一室に、休みといや、千葉の自宅から、せっせと通うことになったのである。1DKの部屋には、描きかけの絵は無論のこと、すでに描かれた絵の山また山、が入口から奥まで所狭し、と、縦に、横に、積み上げ、と、置いてあった。ボクの茅ヶ崎通いは、その彼が2003年12月に亡くなるまで、続けられた。その青木昌三が残した畢生の翻訳書、中国古典白話小説『醒世姻縁伝』(左並旗男訳 兄弟舎刊行)のことに入ろう。ボクが、この本の原書『醒世姻縁伝』(上海古籍出版社)の存在を知ったのは1990年初夏だった。彼から、「日本では、まだ訳されていない面白い本がある」と云われて、その原書を見せられたのである。
「『子曰ク、朝ニ道ヲ聞ケバ、夕ニ死ストモ可ナリ』式のいわゆる漢文訓み下しの訳は、一通りやったので、これを参考にして、この本を共同で、現代語訳にしてみようではないか」と、彼から、誘いをかけられた。最初は、私もその気になり、取り掛かりはしたものの、もとより小説文を書ける器ではない私に書けるはずもなく、ごく自然と、彼の現代語訳作業に、ボクが、側面から手伝いをする、という形で作業が進められた。ボクが、字句,難解な方言、俚諺などの解明に東奔西走、参考資料探しに走り回る役となったのである。時に出張の名に隠れ、中国の老師宅へ脚を運び、教えを乞うたりもした。遠く台湾、大陸にいる老師との手紙でのやりとりが延々と続けられもしたのである。結局、なんと四百万もの金を捻出して、ボクがこの本の発行人となり、平成十四年(2002年)四月四日に、出版してしまった。無我夢中、あっという間の十年の歳月だった。出版事業というものを全く知らない素人であるボクが、この本の出版に踏み切った理由は、京都の出版社サバト館(現在東京文京区へ移転)の生田かをる氏の懇切丁寧なアドバイズがあったことにもよるが、なんといっても、彼の翻訳文に接して以来、十年有余、ああでもない、こうでもない、と、校正につぐ校正、言葉探し、語彙選びの厳選につぐ厳選、氏の寄せて来る「どうも、まだ日本語になっていない! これでどうだろう!」これでもか、これでもか、という日本語作文への姿勢と執念に、共感したことに起因する。曲折を経て、出来上がった訳文は、一部多少難解な面もあるにはあるが、歯切れがよく、文章に躍動感があり、しかも、美しい日本語にこなれ、満足のいく翻訳文になった。初回から終章まで、随所にちりばめられたユーモア、中国古典小説モノにあって常識化されたあの煩わしく、目障りな注釈群を、各章の終わりにつけることなく、しかも注釈すべき語句は、読者に気付かせることなく物語の文章の流れに溶け込ませた翻訳上の創意工夫は、正に画期的であり、なによりも小説、読み物としての体裁が整っているのである。本書は、平成の名訳として後世に残り、大きな評価を得る日が、やがて、必ず来る、と固く信じて疑わない所以である。物語の面白さもさることながら、殊に、中国語を知る研究者には、翻訳の妙を味わってもらえるはずだ。
その青木昌三(1935―2003)をここで、彼の語り口を混じえながら、紹介して行こう:筆名、左並旗男(さなみはたお)、岡山県出身。「佐藤春夫の詩、『三トセガホドハ通ヒシモ、酒、歌、煙草マタ女、他ニオボヘシコトオナシ』この女の文字を映画とすれば、そっくりで、田舎にいた頃は、映画館に入りびたりのほかは、小説ばかりの読書三昧にあけくれていた」という高校時代。「高卒後上京、何か一人で出来るものを、と、始めたのが絵画、一切が独習、糊口のため、以前は、人さまの本の挿絵を描いていた」途切れ途切れの語りは続く「ともかく……今日まで、何となく、ヒマをつぶして生きて来た中途半端な人間ですから……」と、自嘲的に云うものの「人は、パンのみに、生きるに、あらず」という確乎とした信念を密かに持つ超俗孤高の人、青木昌三、がいる。
ボクには、どうしても、京丸牡丹の存在と青木昌三の像が重ね合ってしかたがない。何処の誰かは知らないが、キラ星のように耀く作品を六十年に一度、この世に送り続けてくれる……そんな芸術家がこの世の何処かに息づいている……と。彼が画家志望ではなく、ジツは小説家志望であったと知ったのは、うかつにも『醒世姻縁伝』の翻訳をやりはじめて五年ほど経ってからのことだった。そして後の五年、やっと翻訳を完成させた時、彼は、人知れず、作家としての大輪の花を咲かせた、と思いもし、独り納得もしたのである。
ボクの独り善がりであってはいけないので、やはり、世に知られた“識者”たちの『醒世姻縁伝』への評価を参考までに、記しておこう。
徐志摩(1896−1931)は、「中国の五本の指の中に入る大小説の一つ」にあげ、胡適(1891−1962)も、「最も豊富で最も詳細な文化資料」と評価し、かの魯迅(1881−1936)は、「嘗て一見したが、至多至煩で、読了するに難く、その大略は、因果応報の談、社会や家庭の事を描いて、描写は頗る仔細、諷刺は或いは鋭く、《平山冷燕》の流に比べて、誠に傑出している。わたくしが続了せざるは、わたしの粗心の故、この書の罪ではない」と、まことに正直な記述がある。
我が日本でも、二、三抄訳や研究書が出てはいるが、書評に関しては、いずれも、的外れの感は免れないように思う。敢えて一つだけ取り上げるなら、前野直彬(1947−)の、「清初の小説群の中で、多少とも異色のある作品としては、西周生の『醒世姻縁伝』百回があげられよう。 (略)……執拗なまでに〈懼内〉(恐妻)だけを描き出したのである……」(中国文化叢書5『文学史』大修館書店発行)という紹介が目に付くのみ。ほか、どの学者も、本書の小説としての面白さに注目していないのは、残念至極。この『醒世姻縁伝』を「稀に見る、優れた作品」と、日本人で、最初に見抜いた“その人”、青木昌三をたたえたい。
現在の中国では、張万鈞氏(河南省鄭州の異才と評されている聾唖の文人――鄭州市図書館顧問)は、「本書の価値といえば、勧善懲悪、因果応報の宣揚に在るのではなく、明末清初の民俗を全面描写した民俗学研究の百科全書であることに在る。これは当時の庶民生活を活き活きと、きめこまやかに描絵した雄大宏壮の風景画である」と賞賛。ボクの恩師俚諺学者朱介凡老師も「金瓶梅を超える大作」と評している。
少し長いが、上述の張万鈞氏(ボクは今なお書信により教えを仰いでいる)の注釈『醒世姻縁伝』の「後記」(中州古籍出版社)原文の一部抄訳を試みてみよう:
「《醒世姻縁伝》は、ちょうど《金瓶梅》の後に継いで、婚姻問題を題材にした一家庭を中心に描写した一大長編小説である。薛素姐(せつそしゃ)が、この小説の中心人物であることから、本作品を評価するに当たっては、何はともあれ、素姐という女に、まずスポット・ライトをあてなければいけない。素姐(そしゃ)は、狄希陳(てききちん)と結婚する前までは、美貌で、しかも、心根の善良な女の子であった。しかし、婚礼の前日になって、作者は、荒唐無稽とも思える大胆な手法で、素姐の心の臓を突如、取り換えてしまうのである。結婚後、夫を憎悪するように変身させ、更に、作者の筆は留まることを知らず、素姐を、思いのままに、夫をいびり、虐める気性の荒い“じゃじゃ馬女”にまで、変貌させていく。例えば、“牢獄”と称して、夫希陳を閉じ込める、棒で叩く、突く、靴底を縫う針で夫の身体のいたるところをチクチクとやる、腕を噛み切る、など、痛めつけが徹底しているのである……(略)。作者の筆鋒は、素姐のこうした素行描写のみに留まらず、何ごとにも拘束されない自由奔放さを素姐に求め、細に描くことにまで及んでもいる。食べたいものは、食べたいときに食べる、何を着たいと想えば、なんとしてでも手に入れさせては着る、何かやりたいと想えば、すべからく思い通りにやる。目上の者の言いつけには、わざと逆らい、驚かせ、騒ぎを起こしては、一家の秩序を乱し、それが、死ぬの生きるの、という口論、すったもんだの騒動、あげく裁判沙汰にまで及んだりする。文中、彼女の言動は、実に面目躍如として真に迫り、呼べば、すぐにでも想絵から飛び出て来そうだ。封建同族支配体系を目の仇として見なす反逆的な素姐の性格描写は、我らに深い印象を与えてやまない。中国の白話小説史上、他に類のない作品と云えるのではないか。……」
と、拙訳はこのくらいにしておく。
終わりに、蛇足を免れないが、ボクとしては、この『醒世姻縁伝』を「ユーモア小説」、「警世の書」とも評しておこう。翻研部員の中に、中国語を専攻する後輩がいたら、是非、本書の一読を勧めるものである。
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