深沢俊太郎

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深沢俊太郎の部屋
Shuntaro Fukasawa
「醒学」(醒世姻縁伝研究)


■醒学一号「《醒世姻縁伝》の勧め」
1)はじめに
2)凡例
3)弁語(序文)
4)後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
5)再販後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
6)醒世姻縁伝の勧め

(2)凡例:
凡例
深沢俊太郎 訳
(一)本書に登場する晁源、狄宗羽(狄員外)、童寄姐、薛素姐らは、すべて本名ではない。なぜなら、そのひと本人の実際の発言、行為行動として、人さまの前に暴露したくなかったからである。

(一)本書に描いた婦女の徳行、賢妻の例では、姓名は、すべて実の名を使った。いっぽう、不埒千番、でたらめ男達の姓名は、すべて偽名である。実名を暴露しなかったのは、彼らに悔い改めてもらう余地を残したからである。また、悪行の実際を描写したのは、悪行を戒め、善行を積まねばならないと、世の人々に伝えたかったからである。

(一)本書に少なからず描写した道理、婦女子の徳行、言動については、宣揚気味、称賛過度の嫌いはあるが、敢えて省くことはしなかった。ただ、目にあまる悪行描写については、かなり割愛した。これは、善行を称えることに重きを置き、悪事を働く者への懲罰を極度に描きたくなかったからである。

(一)本書における閨房、性描写については、多く書き連ねることはしたくなかった。淫猥な俗曲や猥褻卑語を多用すれば、読者に笑われ、本書の品位を落すことになり、低級卑俗な読み物の類いになってしまうからである。どうしても描写せねばならない個所では、極力抑え、添える程度に留めた。多用して、人から嘲笑され、個人の閨房秘事をあばいていると非難されては、私としては、恥ずかしく、なんともやりきれないからである。

(一)本書に織り込んだ事件、ことの展開は、個々にそれぞれ根拠があり、登場人物もしかり、実在する。しかし、その人物と諸々事件との相関関係が、何のこじつけもなく、縫い目の見えない天の羽衣のように、ごく自然に読者に見せたかったが、完璧にはいかなかった。しかし、デタラメにコトをでっち上げ、あることないことを無理矢理つなぎ合わせたような類いのモノとは全く異なるのである。

(一)本書に描写した事件は、同時代に起こったことではなく、登場人物もそれぞれが異なった土地で、それぞれに生きた人たちである。筆者としては、描写が活写されていることをひたすら願うのみで、読者諸兄にあっては、無理にどこそこの事件事象、どこの誰、何処にいる人物なのか、などとムリヤリ結びつけることはしないでいただきたい。

(一)本書における律詩、詞曲の内容表現が通俗的で浅薄の感があるのは、農民、苦力、平民、婦女子らが、あちこち、つかえつかえ、読むことが出来ないようではいけないと思ったからである。読者諸君にあっては、戯れ歌類の薄っぺらなものと、どうか蔑まないでいただきたい。

(一)本書中に見える造語、俗諺に、下品で野卑な文字を使ったものもかなりあるが、これらの字句は、山東の方言土着語の語音に従って当て字した。方言の中には、同音の文字を借用したものもままあるが、意味は同じではないので、前後の意味を把握していただき、字面の意味からのみ理解することはしないでもらいたい。そうすれば、全体の意味が分かるはずである。
(以下、張万?老師の教えに従い、訳者加筆:例えば、
《那个小孩子才下草,也不知道羞,明?着?个眼,狄良突?的乱看》(生れたばかりの赤ん坊には何の羞恥などあろうはずもなく、パッチリした二つの目で、キョロキョロと覗き込む人々を見ている)(中州古籍出版社『醒世姻縁伝』第21回P199)の個所。この中の《狄良突?》(この語はまた《滴溜突?》とも云う)は、方言土着語で、目玉をグルグル、キョロキョロ動かすことの形容ではあるが、この四字の中には一字として目玉とかグルグル動かすというような意味を持つ字が入っていない。)

 そもそも逸聞や瑣事、つまり、珍しい話やちょっとした逸話などを記載した書物というものは、だいたいが一般市民を教化する目的で、巷に語り継がれた話をまとめ、刊行し、人々への戒めの教本としたのが多いものであるが、本書は武林(現在の杭州)より伝えられ、白下(現在の南京)で校正し脱稿した小説である。随所に善あり、悪あり、善悪入り混じりの物語で、読み始めは、まとまりがなくバラバラ、煩雑の感は免れないが、よくよく読み進めると、前後、あたかも鎖で繋がれているかのように、からみ合い、前後巧に相呼応していることが分かるはずだ。その内容は、人に善を為すことを勧め、人が悪を為すことを戒め禁じたものではあるが、全体の物語の構成には、無駄話に見える話も、余計に見える言葉も、スジが一本通っており、語り口も飾り気がなく天衣無縫、真心率直で実に見事に作られた物語である。

 ある人はこう云うかもしれない:「もし文中の余計な言葉を選り捨て、繁雑な描写個所を省いてしまえば、より簡潔で分かりやすいものとなる」と。しかし、私は、笑いながらこう答えておこう:「いや、なんのなんの、そうではない。たとえどんなに改め、削除したところで、虎を描いて虎にあらず、蛇を描いて足を付けてしまうという喩の通り、かえって原書の完璧ともいえる天衣無縫の構成をぶち壊してしまう。だから、あれこれ、とやかく批評するには及びませんよ」と。

 本書の原題は「悪姻縁」であった。おおよそ、人が前世で、罪業を残せば、後世に必ず報いがあると云う。悪心を起こすと、悪の境遇に見舞われ、輪廻転生が行なわれるのである。無論、悪行の程度により、相応の報いを受けるのであるが、悪事には必ず悪報があり、これは間違いなく執行される。恨みの報い合いは踏襲されて行くが、これは、すべて、初めの僅かなその人の考え違いから、悪い結果を作り出してしまうもので、もしこれを止める手立てを講ずることなく、放置すれば、悪報は際限なく、脹らんで行くのである。これは実に嘆かわしく悲しむべきことだ。しかし、もし、一念の過ち、悪念をその初めに制止することができるなら、そうした人こそ、聖賢の人、才能と勇気ある人だ。まさに「豁然と目醒め悟る」というヤツで、俗諺にいうところの「悪事から足を洗えばすぐに成仏できる」である。しかし、もし、これを笑い話にしたり、珍聞奇談と見なして世間話の材料にしたり、甚だしきに至っては悪行のマネをするようになっては、その罪悪は、益々深いものとなり、あげく、全身に毛を生やし、頭上に角を持った禽獣、畜生如きに転生されるのである。私は、世の人々が本書により、悟りを開き、悪念を起こすことなく、皆がみな善行を奉ずるまでになることを願うものである。そうなれば、本書も風俗教化の一役を担うことになり、どれだけ世のため人のためになるであろうか? それ故、こうした考えを《凡例》の後に書かせてもらった。諸君諸兄には、本書を開き、一読され、開眼、世の中を警醒してほしいとの願いから、書名を「醒世姻縁伝」という題にしたのである。

 なお、文中にある幾つかの評語は葛受之という名の人の手によるものである。本書の要点をよく捉えているが、葛という人が、何人なるや不明である。おそらく彼の姓名は埋もれてしまったのであろうが、ここにこのことを記しておく。

東嶺学道人題

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