深沢俊太郎

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《醒世姻縁伝》研究!
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深沢俊太郎の部屋
Shuntaro Fukasawa
「醒学」(醒世姻縁伝研究)


■醒学一号「《醒世姻縁伝》の勧め」
1)はじめに
2)凡例
3)弁語(序文)
4)後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
5)再販後記(中州古籍出版社・醒世姻縁伝)
6)醒世姻縁伝の勧め

(4)後記:
後 記(河南本P945)
深沢俊太郎 訳
 ほぼ百万字にも及ぶ《白話章回小説》、日本語で言うところのいわゆる口語体中国古典長編小説『醒世姻縁伝』が世に出て数百年、以来、作者はいったい誰か等諸説紛紛、作品の評価もさまざま、曲がりなりにも、読者の関心を引いて来たが、今回、我われは、異なる版本や関連資料をもとに、版本間の異同を整理し、句読点を施し、新たに注釈を行なった。拙さは恐れず、我われの本書に対する見解と本作業の過程にあたって遭遇した問題点、そして、その問題点をどのように考察し処理したかを、ここに公表する。読者諸兄にご教示願う次第である。

(一)
 本書の作者について、これまで一貫して二種類の異なった見方がある。一つは、西周生は『聊斎志異』の作者である蒲松齢と断定したもので、その主な根拠として、楊復吉の『夢蘭瑣筆』と『聊斎志異』の《江城》などから章例を挙げている。また、もう一つは、「蒲松齢の作ではなかろう、しかし、西周生とはいったい何者であるか、依然、考証されていない」という見方である。我われとしては、後者の方に分があるという見解だが、その理由は以下の通りである。

1. 王守義氏の考証によると、『醒世姻縁伝』は、清朝順治年間(1644−1662)には刻本が出ていたということであるが、もし仮に、この本が順治の最後の年である18年(1661年)に刻印されたとしても、一冊の本になるまでの経緯を加味すれば、間違いなく、この年の以前に書かれていたことになる。仮に順治末としても、蒲松齢氏は、この時、若干22歳である。無論、『幼くして才名あり』と云われる氏ではあるが、二十歳そこらでこのような一大巨編の著作を書き上げようとしても、これは、どうみても無理と思われる。

2. 蒲松齢氏の友人、ひいては『郢中詩社』の社友らにいたるまで、誰一人として、蒲松齢に《醒世姻縁伝》の作あり、と云ってはいない点である。王漁洋、王鹿瞻、李希梅、張篤慶、畢際友、孫宸轤ヘ、みな蒲松齢氏の友人で、付き合いも密で親しく、彼らは、蒲松齢氏生涯の創作活動に関して、かなり深く知っていたと断言してよいと思う。ここでは、王漁洋の例を挙げる。王培筍の《郷園憶旧録》には:「『志異』の推敲の段階では、王漁洋氏は、各編ごとに閲読を申し出、一篇ごと送り返し、篇名を指定し、再推敲を求めたりしていた。こうしたやりとりの書簡を、私は具に看てきた。また、標点を一、二文字正し、改めたりもしていた。それで『志異』の文面は、確かに面目一新されたと思ったものだ……『志異』には、漁洋氏の本文の上段に書き入れた評語、かたわらに書いた批評文、総評の書き込みがあった。」とある。『聊斎志異』についてすら、このような具合である。まして『醒世姻縁伝』のような大作にあっておや、友人らが、一言も触れぬはずはない。これを妙なことと云わずして何と云えばいいのであろうか!

3. 蒲松齢氏の子孫も、『醒世姻縁伝』を蒲松齢の作とする説を出してはいないことである。蒲?の『祭父文』を例にとろう:「わたしの父は、小さい頃より才名有り、内外ともに高く評価され、路頭に迷うことなく過ごしたが、父は、諸々社会の不義や不正を憤り歎いていた時期に、僅かではあるが、古くからの詩、賦、詞文を集め、糸綴じ本にすること千余首、冠婚葬祭の文章を書くこと四百余編を残した。晩年には『聊斎志異』全八巻、毎卷数万語にも及ぶ著作を残したが、これには、高司寇、唐太史両氏の序文をはじめ、末尾には漁洋氏の跋文をいただいた。この聊斎志異は、だいたいが、世の不義不正に憤慨し、歎いた父の心情は抑えた、とりとめもないものばかりに見える。しかし、その背景には、勧善懲悪の真情が吐露されており、単に人を笑わせ、諧謔を弄した作品ではないのである。この間には、因果応報のつまらぬモノも編纂している。通俗の類いではあるが、これはこれで人々に愛されていたのである……。この他、例えば、『省身語録』『歴字文』『農桑経』『日用俗字』などの編著はみな、身体に益し、日用に役立つものを題材としたもので、父は、生まれながらに、書を愛し、書に親しみ、老いても厭きることはなかった。卜易術数についても、手書きの一巻は、繁雑なものを削り去り、簡潔で含みをもたせ、これは不朽の書と成った。」とある。

 この蒲惹の祭文中には、蒲松齢の一生の著作をあますことなく明確に記述されている。文中にある「因果応報のつまらぬモノ」というのは、あの胡適の推論する「醒世姻縁伝」を指しているのでなく、通俗の類いではあるが、これはこれで人々に愛されていたというのである。また晩年の編著は、狄希陳の二世代にわたる姻縁の物語に役立てる素材としたものではなく、日用に役立てるものを素材としたのである。その編纂したという「通俗の類い」とは、いまだ課題として残りはするものの、この全文を通して見ても、《醒世姻縁伝》の作あり、という一字も出ていない。後に、蒲立徳らが蒲松齢の碑を建て、蒲松齢全著作目録をその碑に刻印したが、その中にも、この作品名は列記されてはいない。蒲松齢がもし、本当に《醒世姻縁伝》の編者であるとするなら、蒲松齢の後裔は、これを曖昧にしておくわけがない。楊復吉の『夢蘭?筆』に記している「事実を指摘し、本に書けば、衣服のボタンをはずすようなもので、家の私事を暴くことになる」から、隠したのであろうか、まさかそのようなことはあるまい。

 蒲松齢が71歳(康煕49年庚寅(1710年))の時に、故郷に貢物をし、同郷の人張篤慶、李希梅と共に、《郷飲介賓》となり、県の官吏から扁額を出させ、74歳の時には、下賜金を出してほしいと、上申書まで出している。さらには、蒲松齢の死後、門下生の楊万春らは、“皇清年進士候補補導の蒲柳泉先生”とまで称しているのであるが、これこそ、「本を書けば、衣服のボタンをはずすようなもので、家の私事を暴くことになる」であり、事実と異なっているのである。

4. 原書に、“西周生編著”とある。この“編著”は、“著作”とは異なり、必ずや特定の意味がこめられているはずだ。胡適の考証によれば、蒲松齢にまず《江城》などの作品があり、後に、この物語をもとに大きく膨らませ、長編《醒世姻縁伝》を著したとある。しかし、この種の推断は、まったくこじつけに過ぎない。蒲松齢の聊斎志異は、康煕18年(1679年)、蒲松齢が40歳のころにできた本であり、その後の30数年間、氏の著作で、本になった主なものを列記してみよう:

康煕 22年(1683年)44歳《婚嫁全書》
23年(1684年)45歳《帝京景物選略》自ら前書きを書く。《省身語録》
35年(1696年)57歳《懐刑録》自序有り
36年 (1697年)58歳《小学節要》跋文あり。宋七律詩三百二十二首を選び、名付けて《宋七律詩選》とし、自ら跋文を書く。
43年(1704年)65歳《日用俗字》序文有り。
44年(1705年)66歳《農桑経》序文有り。
45年(1706年)67歳《薬祟書》
48年(1709年)70歳 初夏に《斉民要術》を読み、これを手書きする。
53年(1714年)75歳 《観象占玩》三巻を自ら収録。
 である。こうして、ざっと蒲松齢氏の晩年の著作一覧を見ても、《醒世姻縁伝》を書いた可能性はない。

 さて“編著”という表現である。この“編著”という意味を考えていくと、或いは本書が形成されて行った過程を探ることができるかもしれない。明代の中葉期では、婚姻問題は、すでに重要な社会問題の一つで、人々の関心ごととなり、それは文芸形式で表現され、舞台上で一般に広く演じ歌われていた。明代の《錦箋記》第十一に《?婚》というのがあり、この中に、好姻縁、悪姻縁に関する歌詞が書かれているが、これなどは、文筆家にとり、再創作する上で使えるまたとない題材となる。作者は、醒世姻縁伝を創作する過程で、おそらくこうした民間に伝承されて来た好姻縁、悪姻縁の物語に啓発され、はたまた当時流行っていた劇本、弾き語り、俗曲、仏教講和にいたるまで丹念に取材、収集し、自ら補い、繋ぎ合わせ、メリハリをつけ、編集しなおし、書き上げたに違いない。

 最近の調査で、清嘉慶22年(1817年)編《?wei3川県志》の中に:
「范守己、字は介儒、隆慶4年郷試に合格、万暦2年(1574年)甲戌の進士……四川の馬瞿、騒ぎを起こす。馬瞿、巧に洞窟に逃れる。范守己は僅か数騎をともない、これを偵察、日の暮れを恐れることなく、馬瞿の潜む洞窟に迫り、鐘や太鼓を打ち鳴らし、多勢を装った。馬瞿ら賊軍はみな恐れ、降服を望んだ。范守己は攻めるのを止め、“降服すれば殺さず、捕らえの身とするのみ”と伝えた。指揮官をやり、賊と面談、賊はすすんで降服した。四川の軍政長官の巡撫は、范守己の功績をこころよく思わず、報告しなかった。その為、中央は范守己を茶陵太守に左遷した。後に兵部職方郎に任ぜられ、やがて兵部侍郎にまで昇進した。」

 というのがあった。この記述を見ると、小説中の郭総兵が成都南辺の地、鎮雄と烏撒の土官事件を慰撫したくだりと符合すること。また、清乾隆53年(1788年)編《衛輝府志》に蘇時霖なる人物の記述があるが、この人物の出身地、官職すべて、小説中の薛教授と同じであること。この二例から、作者は、創作を進めるにあたり、民間文学の中から養分を吸い取る他、当時の人事をも参考にして、書き上げたことが説明できる。それで“編著”としたのではないだろうか。

5. 本書の巻頭にある《凡例》東嶺学道人の言によれば、『本書は、武林(現杭州)より伝えられ、白下(現南京)で整理し原稿を書き上げた』とある。おおむね一冊の本の流通経路を見ると、まずは、作者が居住し、仕事をしていた拠点と関連があり、そこから出発し、広がっていくのが普通である。印刷出版事業がたいして発達してはいなかった当時であれば、なおのことこの関連は、ゆるぎないものとなる。聊斎志異を例にとって言えば、最も早くに伝わったのは、済南朱氏の抄本、乾隆16年暦城の張希杰の『鋳雪斉』抄本及び莱陽の趙荷村(起杲)の始めの十六卷本からで、これらは、みな山東省内から始まり、流布していった。《紅楼夢》はどうかというと、甲戌、己卯、庚辰などに出た本は、北京から広まって行った。『岐路灯』は、河南から広まったことなどは、こうした事情を物語るものである。であるから、《醒世姻縁伝》が「武林(現杭州)から伝えられ、白下(現南京)で整理し原稿を書き上げた」という記述は、我われの模索研究する上で、一つの大きな手がかりとなった。つまり、行きつくところ、作者西周生は、浙江、金陵の両地と関連のある人物に違いない。しかも、山東語に通じている人物、ということである。蒲松齢氏は、山東?川人で、山東語に通じているとはいえ、浙江、金陵の両地とは関わりはない。また蒲松齢氏の生涯を通じて見ても、孫將m県(訳者注:江南宝応県:現江蘇省宝応)の幕兵時代に、氏が最も南へ行ったのは、揚子江、宝応、揚州、高郵一帯までであり、しかも一年で、山東の故郷へ戻って来ており、西鋪畢の傍に家を持ち、住みはしたが、そこから遠くへは出てはいないのである。以上の説明からも西周生が蒲松齢氏であるという可能性はまずないであろう。

 それより、我われは、むしろ、小説中の李政修(粋然)こそ、注目に値する人物と思うのである。清朝道光五年編『河内県志・先賢伝』に:
 李政修、字は粋然。万暦丙辰(1436年)の進士。山西省介休県の知県に任命されるが、母の死に遭い喪に服す。、?州に補佐官として復帰。馬の代価八百金を節約、すべて税の返済に当てる。滋陽に移官、礼部郎中に抜擢され、済南道に移り、按察副使の官職を兼任す。泰山の香税三千金を断る。嘉湖道に移官、再び済南道に復帰するが、任期終了前に退官、しばらくして、翼南道となる。この年、天災不祥の気のある年で、多くの子供らが道端に棄てられたが、孤児院を建て子供らを救った。国の最初の天津道補に推薦され、淮海道に昇任し、官を全うし終えた。
という記載がある。

 孫楷第は「小説中の人名は、ほとんど実名ではないので、まずは調べるまでもないが、唯一、李粋然に関しては、実名で、正しいので、考証するに値する」(《一封考証<醒世姻縁伝>的信》より引用)と言っている。更に、彼の考証によると、「李政修が滋陽県に任官したのは、天啓元年(1621年)で、済南道に移官したのは崇禎初年(1628年)、嘉湖道に移官したのは崇禎七年(甲戌)1634年、翼南道に任官した年は崇禎十年あたりで、天災、不祥の気のある年で、救済事業を行なったのは、崇禎十三年、翼南道の頃のことであった。」とも言っている。この小説が、もし崇禎以前に書かれたとするならば、李粋然の分道に勤めた事実はなくなるわけで、つまり、この小説は崇禎より以前の作とはならない。この点は断言してさしさわりはないであろう。

 李粋然が官吏となり、赴任して行った先は、小説ではすべて触れられており、李粋然氏の善政についてもたびたび描写されていることから、我われは次のように判断した:
(1) 作者は、李粋然と同時代の人物であること。
(2) 写実手法で、同時代の人物を描写しているからには、作者は、李氏を知り、進んだ交流のあった人物に違いないこと。
(3) 李粋然氏の官界での実行動と小説中の物語に描写されている内容から見ると、作者は、李粋然とかなり近く、親しい関係にあった人物で、おそらく、長期にわたり李粋然に付き従った幕賓、参謀であった可能性があること。

6. 現在の洛陽は昔、西周とも称され、周の考王の弟掲之に分け与えられ、一諸侯として封ぜられた土地であった。西周生という作者の名前は、おそらくこの出身地、つまり作者の原籍からとった名ではないだろうか。また、本文中には、山東省の方言が大量に使われているほか、河南省の方言も見られ、そしてその方言が現在もなお使われていること。
例えば、《走?》、《?猫狗不是》、《?智》などである。こうした山東省方言に通じ、しかもまた河南省の方言を熟知している人物でなければ、作品の中で方言を自在に使えるはずがないこと。もう一つ、小説中に登場する人物であるが、河南省を原籍に持つ者が多いことである。李粋然以外にも、例えば、?皋門、李純治、薛教授などである。作者のこれら人物の描写には、ほとんど真正面からその人物像を捕らえ、郷土人への情愛すら感じさせる描写をしていることである。我われが、作者西周生は、おそらく河南出身の人物であろうと推測する所以である。

7. 文中から、作者は、明朝での諱(いみな)を避けていること、例えば、
《照》が《?》、《由》が《?》、《校》が《?》、《?》が《?》などであるが、このことは、作者が主に明の時代に生き、実生活をしていたことは疑う余地がない。更には、《奴》や《?lu3》の字面は使わず、清での諱であった《?子》を《也先》に替えて使ったりもしていることから、作者は清の初めの頃も、なお生きていたということを付け加えておこう。

8. 作品の構成形式から論じてみよう。前後二つの関係のない物語をぶつけ合い、一つ一つつじつまを合わせるという手法である。孫楷第の考証の中に、「明代以降、時代の節目、移り変わり、流行によるのか、俗謡作家の文章や思潮に変化が見られ、作られる曲譜にもろもろの定型があったようだ。しかし、風変わりで、突飛なものに変わったのは、いつからかは突き詰めるに至ってはいない。ただ清朝の初期には、この風潮は、いっそう盛んとなっていた。当然、小説もまたこの影響を受けたであろう」という記述があるが、作者の本作品構成と創作方法もまた、当時のこうした風潮の影響を受けているのである。

 以上の観点から、本書の創作年代は、だいたい明末崇禎年間で、脱稿したのは清朝始め順治年間であろう、と断定するものである。

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