原書に、“西周生編著”とある。この“編著”は、“著作”とは異なり、必ずや特定の意味がこめられているはずだ。胡適の考証によれば、蒲松齢にまず《江城》などの作品があり、後に、この物語をもとに大きく膨らませ、長編《醒世姻縁伝》を著したとある。しかし、この種の推断は、まったくこじつけに過ぎない。蒲松齢の聊斎志異は、康煕18年(1679年)、蒲松齢が40歳のころにできた本であり、その後の30数年間、氏の著作で、本になった主なものを列記してみよう:
康煕
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22年(1683年)44歳《婚嫁全書》
23年(1684年)45歳《帝京景物選略》自ら前書きを書く。《省身語録》
35年(1696年)57歳《懐刑録》自序有り
36年
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(1697年)58歳《小学節要》跋文あり。宋七律詩三百二十二首を選び、名付けて《宋七律詩選》とし、自ら跋文を書く。
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43年(1704年)65歳《日用俗字》序文有り。
44年(1705年)66歳《農桑経》序文有り。
45年(1706年)67歳《薬祟書》
48年(1709年)70歳 初夏に《斉民要術》を読み、これを手書きする。
53年(1714年)75歳 《観象占玩》三巻を自ら収録。
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である。こうして、ざっと蒲松齢氏の晩年の著作一覧を見ても、《醒世姻縁伝》を書いた可能性はない。
さて“編著”という表現である。この“編著”という意味を考えていくと、或いは本書が形成されて行った過程を探ることができるかもしれない。明代の中葉期では、婚姻問題は、すでに重要な社会問題の一つで、人々の関心ごととなり、それは文芸形式で表現され、舞台上で一般に広く演じ歌われていた。明代の《錦箋記》第十一に《?婚》というのがあり、この中に、好姻縁、悪姻縁に関する歌詞が書かれているが、これなどは、文筆家にとり、再創作する上で使えるまたとない題材となる。作者は、醒世姻縁伝を創作する過程で、おそらくこうした民間に伝承されて来た好姻縁、悪姻縁の物語に啓発され、はたまた当時流行っていた劇本、弾き語り、俗曲、仏教講和にいたるまで丹念に取材、収集し、自ら補い、繋ぎ合わせ、メリハリをつけ、編集しなおし、書き上げたに違いない。
最近の調査で、清嘉慶22年(1817年)編の中に:
「范守己、字は介儒、隆慶4年郷試に合格、万暦2年(1574年)甲戌の進士……四川の馬瞿、騒ぎを起こす。馬瞿、巧に洞窟に逃れる。范守己は僅か数騎をともない、これを偵察、日の暮れを恐れることなく、馬瞿の潜む洞窟に迫り、鐘や太鼓を打ち鳴らし、多勢を装った。馬瞿ら賊軍はみな恐れ、降服を望んだ。范守己は攻めるのを止め、“降服すれば殺さず、捕らえの身とするのみ”と伝えた。指揮官をやり、賊と面談、賊はすすんで降服した。四川の軍政長官の巡撫は、范守己の功績をこころよく思わず、報告しなかった。その為、中央は范守己を茶陵太守に左遷した。後に兵部職方郎に任ぜられ、やがて兵部侍郎にまで昇進した。」
というのがあった。この記述を見ると、小説中の郭総兵が成都南辺の地、鎮雄と烏撒の土官事件を慰撫したくだりと符合すること。また、清乾隆53年(1788年)編《衛輝府志》に蘇時霖なる人物の記述があるが、この人物の出身地、官職すべて、小説中の薛教授と同じであること。この二例から、作者は、創作を進めるにあたり、民間文学の中から養分を吸い取る他、当時の人事をも参考にして、書き上げたことが説明できる。それで“編著”としたのではないだろうか。
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