深沢俊太郎

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深沢俊太郎の部屋
Shuntaro Fukasawa
ネット中国性文化博物館


休 憩 室:中国の春画絵師たち
仇英(きゅうえい)前頁 <
【他の絵師達】


 では清朝で知られる春宮画絵師にはどんな人物がいるのでしょうか? 劉達臨教授の労作『性与中国文化』(人民出版社)の中に紹介されておりますので、それら絵師たちの名前を取り出して見ましょう。
○石濂和尚(せきれんおしょう)
○王式(おうしき)
○馬相舜(ばそうしゅん)
○馬振(ばしん)
(かいき)(かいき)
の五人は知っておきたい名前です。
劉達臨教授の許しを得て『性与中国文化』に見られる記述を追って見ることにします。順にかいつまんだ翻訳を交えてそれぞれの絵師たちを紹介していきましょう。

石濂和尚(せきれんおしょう):明末清初の人。俗姓は徐、本籍は浙西。後に南下して広州の長春庵に定住する。細密画、中でも人物画を得意とし、当時の権勢、高貴の人士、賢達らと密接に交わり、春宮画を描いてはこうした富裕の人らの興趣を買っていたといいます。当時の名士、屈大均(1630〜1696)の著わした書物の中に、この石濂和尚が春宮画を描いていたことが少なからず記載されていることから、彼が春宮画を書いていたことが分かります。
 その名士・屈大均(くつだいきん)先生の文章、これがまたクソミソに石濂和尚を罵っているもので痛快と思うと同時に、春宮画というものが蔑視されていた事実も垣間見ることができます。しかしその春画蔑視は当時の文人の間ではむしろ当然のことであったのかも知れませんし、或いはそれが中国人全体に今も根強く残る春宮画蔑視思想なのかも知れません。春宮画蒐集にいそしんでいる筆者に、親しい中国の友人はポツリと言ったものです。「そんなことをして何の意義があるのか?」と。
さてその屈大均(初めの名は紹隆・後に大均と改める。字は翁山。広東番禺県の人。陳恭尹、梁堂集と共に嶺南の三大家と並び称せられている)先生の《花怪》中の文を訳してみましょう:

「私は、禅者(石濂和尚を指す)が絵を描いていると聞き及んでいるが、なんたることか当局の士太夫の為に春宮画を描いているというではなか! 閨房のあられない姿態の仔細を微に入り細に入り、しかも精緻にわたって描いている……よしんば女人と歴戦練磨、遊びほうけたヤカラであっても、かくモロモロの体位は想像だに出来ぬであろうに、どうして禅者は至り尽くせり、こうまで行き届いているや? 奥ゆかしさなどいささかたりともないではないか?」

さらに『屈翁山復石濂書』の中では:

「オヌシは社交付き合いの手段に、薄化粧の美女、厚化粧の女人らを描くことで、多くの姫妾を作り、性体位二十四手を駆使し、閨房中の女のサマザマな仰伏の姿態を描いては至極甚深(しごくじんしん)、女を篭絡するその手管はなかなかどうして奥義を窮めているではないか。」

と皮肉たっぷりに書いてあります。
しかし、この文章の中から石濂和尚が春宮図をよく描き、彼の徹底した風流振りも窺い知ることができるというものです。

王式(おうしき):江蘇省太倉の人。字は無(ぶごつ)(ぶごつ)。
この王式さんの描く春宮画の画風を紹介したものがあります。張庚(ちょうこう)という人が『国朝画征録』という書物の中に書いている、とは劉教授の本から知りました。そのくだりを訳してみましょう。
「八ページの小冊子に、三寸ばかりの人身が描がれているが、その描かれる女人の眉(まゆ)と睫(まつげ)は小さく揺れ震えんばかり、濃密な姿態の画局から名残を惜しむかのような余韻が漂い、まるで睦言が聞こえるかのようだ。スケッチ風に絵に点景を添えたり、彩ったりする画風は、宋朝の人物画法を継承しており、なまめかしくもあでやかな古雅の風情がある。これではとても版画には彫ることは出来ないであろう」
と王式の春宮画を絶賛しています。同様の書物に馬相舜さんの画風にも触れていますのでそれは次の馬相舜さんの項でご覧ください。

馬相舜(ばそうしゅん):山西省大同の人。字は聖治。
「巻物に、八、九寸ほどの人身が描かれているが、ほとんどが長城以北の地、北方、西域の異民族の様で、力強く人を引きつけてやまない迫力があり、その筆遣いは仇英ともまた異なる風情をもっている。」
と評し、上述の王式と馬相舜の二人を指して「これら画風は正しく王、馬のヤカラの手になるものではないか?」
とあります。ここからたとえ絵に落款が無くとも、誰の作か窺い知ることのできる糸口がありそうですね。なお馬相舜の現存する作品では《山林交歓図》というのがあるそうです。

馬振(ばしん):現陝西省関中の人。
この馬振さんを紹介したものに庸訥居士の《咫聞録》というのがあるとは劉教授の本に書かれておりますのでその部分を訳して見ましょう。

「関中の馬振は最近の画壇では著名な画家で、細密画を善くした。一時、宮廷内での四季八節の礼物の中に春宮画帖を必ず入れるという風潮があったが、馬振の描くものが人気があり、プレミアムさえついたという。」

 劉教授の解説では、馬振の描く春宮画に登場する婦女には満州族が多かったといいます。当時宮廷には満州族の軍隊組織、「八旗」に所属する官吏が多かったことから、彼らの好みに迎合したためらしい。
 満州族のご婦人が出て来る春宮画であれば、馬振(ばしん)の名を思い出せばよろしいということになります。
次は、《紅楼夢図咏》の絵で知られる(かいき)さんの登場です。

(かいき)(1774〜1829):清朝嘉慶期の画家。華亭(現上海市松江)の人。字は伯薀(はくうん)。号は香伯(こうはく)、七(きょう)、別号は玉壺外史。祖先は西域の人。祖父・父ともに武官で、武官職を継ぎはしたが、(かいき)は小さいころより病弱であったことから、書を好く読み、学問を修め、結局、詩画の方に天分の花を開かせた。人物画、仏像を善くしたが、特に仕女図を最も得意とし、作品も多く残されている。仕女のまとう衣の紋様まで細く描かれ秀逸、描線に清潔感があって美しい。また背景の樹石は簡素ではあるが非凡、その意表をついた構図はすみずみまで繊細に描かれており、全体の彩色は清楚で気品に溢れ、特に「改派」と称され、清朝美人画の二大派の一つを代表する。

 では最後に(かいき)と並んで仕女図を善くした画家二人の名前をあげてこの稿を終えることにしましょう。余集と費丹旭です。以下、この二人の紹介は《中国歴代仕女画集》(天津人民美術出版社・河北教育出版社)に紹介されている文章を参考にして翻案したものです。

余集(よしゅう)(1718〜1823):清朝乾隆期の画家。仕女図を得意とした。余集の描く仕女は体つきがほっそりとして上品、顔つきは淑やかで気品がある。筆遣いは自由奔放、色合いや模様はあっさりしているが上品な風情があり、余集の描く仕女図は、「余美人」と称され高く評価された。画風は「費派」に入る。

費丹旭(ひたんきゅう)(1801〜1850):清朝嘉道期の画家。人物、肖像画を描いたが、殊に仕女図に精彩をはなち、(かいき)と並んで、清朝美人画のもう一方を代表する「費派」を築いた。費丹旭の描く仕女は、ほっそりとした細長い体躯、顔は卵型、ヤナギの葉のように細く美しい眉毛と目、そしておちょぼ口が特徴。《清史稿》では「費丹旭描くところの仕女はすっきりとして美しく生き生きとしている。背景や添景の配置すべてがあか抜けており、近世ではその右に出る者は出ないであろう」と称賛している。

東陽

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