深沢俊太郎

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Shuntaro Fukasawa
新中国いろはたとえ歌留多


「新・新中国いろはたとえ歌留多」
(連載/月二回/毎月10日と24日更新)
No.43 2006年11月24日
新中国いろはたとえ歌留多:連載No.43
 1970年代のことですが、筆者は、日中友好商社の一つ、ユニバース・トレーディングという貿易会社に勤めていました。当時同じ会社の中国室にいた子で、三十数年経った今でも、筆者を「課長!課長!」と呼びます。「そう呼ぶのが自分にとって自然だから、そう呼ばせて下さい」という。会社がなくなって久しく、それぞれが散り散りバラバラになってしまいましたが、この子とは、音信は、ときどき、ふっと、途切れるのだけれど、これが全く切れてしまうわけじゃない。急に連絡が無くなってしまって、一、二年くらい置いて、ある日、電話か手紙が、突然、舞い込んでくるといった具合。今回は、もうすでに三年くらいは経っていただろうか、もう忘れかけていたころ、といっていいでしょう、その子から、またまた何事もなかったように、ひょっこり電話が入るのです、不思議と縁のある人です。
 少しの驚きと内心羨(うらや)んだ話があります。1995年ごろだったか、ある日、その子から「北京へ留学します」と、知らせて来ました。ちょっとビックリしたのは、関西在住の旦那と子供二人を残して、での、"留学"に、です。さっさと、というのか、いや、颯爽と、いったほうがいいでしょう、当時としては珍しい、といっていいでしょう、ね。躍々と主婦留学を果たした子でした。この留学がボクには、ウラヤマシカッタ! そして、一年程過ぎた1996年の暮れも押し迫った頃、北京から寄せられた便りが、ずっと心に残っていたので、それを引っ張り出し、話題にとりあげます。
 曰く、「現在の中国人は三十代前半か、自分の親ぐらいの年代の人のほうが頼もしく教わることも多いが、自分と同年代の人間――文革時期(1966年ごろからの約十年間)に青春期を過した人たち、イワユル知識分子は、どうしようもなく気迫に欠け、いまだに被害者意識が強く、人のせいばかりにしているだけで、自ら立ち上がって、道を切り開いて行こうという《胆(ダン) ?(シィ)》(度胸と識見)がないように見えるし、そんな彼らの《打(ダァ) ?(ヅォん) ?(リィエン) 充(チョん) 胖(パん) 子(ヅ)》(もったいぶり!)や《人(レン) 云(ユン) 亦(イィ) 云(ユン)》(人が言うから自分も言う)という"定見がない"式の虚弱な面にひどく失望し、そんな人たちに嫌気がしている。」 という手紙の内容でした。
 文面は、逞しくも、頑張り屋の彼女らしい厳しい語気で、書かれており、わが身を振り返させられる思いがしたものでした。そういや、そんな種の人間は、日本にだっている、いる。……酒を飲んで……クダまく輩ねぇ……なら、自分はどうだ? 同様に、ぐちゃぐちゃ文句をいいながら、酔って、酔って酔いつぶれたい!なんて思っているふしがあるんですよ、ねぇ、これが。耳が痛い、痛い!
 わたしは、「まあ、そう言わんと、あんまり人を責めんなよ! 責めてくれるなよ!」と、彼女につぶやいている自分あり、クダ巻く輩には、「もっとシャキッとせんかい!」と内に毒づき、彼女に共感している自分あり、で、自分の中にいる二人の自分を見ながら、その子の手紙を、時に引っ張り出し、その謂いを、今なお反芻している次第。
 そんな彼女から、最近、もらった手紙の中には、「誰にも連絡せず、沈潜していた間に、特にドイツ語と韓国語を学んでいた(略)……今度はドイツへ留学に行く」と書かれてありました。ちなみに彼女の中国語は上級で、流暢な中国語を話し、現代作家・王蒙に詳しい。こういう、すごい女(こ)もいる。

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