「経営者(トップ)に要求されるのは、なんといっても、資金調達ができるかどうかだ」とは、知友・Yさんの言葉です。金を追いかけ、金に追いかけられるのが経営者、商人(ビジネスマン)の宿命、とすれば、なんと気の休まらぬ、気苦労の多い役回りでしょう。しかし、金を手にし、己の采配で、自在に金を使えるのも、経営を担う者の役得であることに変わりはなく、気分的には、少しの休みもないかわり、時間に拘束されないのも、経営者であることに違いはないわけで、経営者冥利、商人冥利とは、やはり、金と時を、意のままに、操ることができる、ということに尽きるのではないか、と、思います。
の稿でとりあげました「世の中の人の飯は、世の中の人が食う」(商売というのは、人がやるのを、誰もが、邪魔だてできやしないものだ)という句は、正(まさ)しく中国人の根本的な経営観念を表しているのではないか、ということを書きましたが、ここでは、更に加えて、
「君子は金を好む、それを得るにそれなりの道(ルート)があるものだ」
という句を記しておきます。
金を好むのは、君子に限らず、大人、小人に限らず、富める者も、貧しい者も、程度の差こそあれ、誰しも、同じに違いない、のでしょうが、ここの、「それなりの道」とは、何なのでしょう? 「それなりのルート」とか、なんとか、云われても、どうも実態、内情、が、よくつかめない。そんな中国的なボカした表現が、気にかかります。人さまのふところ具合を推し測っても、当たるはずもないのですが、現に中国では、たいした給料を取っていないであろう、と、思われる若い公安局交通整理の巡査が、三階建ての一軒家に住んでいたりするのを実際、目にすると、やはり、それなりのルートがあるのだろうなぁ、と、思うのは、ヤッカミでしょう、か? まぁ、我ら"外人さん"には、どうしても入っていけない処が、中国には、どうも、あるようで、こりゃ、なんとも、もどかしいところなのです。が、しかし、正面きって、
「君子は、不義の財は稼がぬものだ。」
「汚い手段で得て余裕あるよりは、まともに得て足りないほうがいい。」
など「手にする金は、不浄の銭であってはならない」と、聖人君子の言葉を付け加えるのを忘れないあたり、中国人は、なかなかシタタカなのです。濡れ手で粟の商売もある、という中国ですから、ドロドロとした内情中身は、われら(よそ者)には、とうてい分かるすべもありません。
「蛇の道はヘビ。」
は、どこも同じなのでしょう、ね。
「十億の民、総商売人」などと、台湾人が大陸の中国人をからかった表現があるので、それも紹介しておきましょう。これは、ナカナカ、興味深い句に思うので、の「所変われば人変わる」の項に入れてよい句かもしれません。
「十億の人民、九億は商売をし、あとの一億人は商売を始めようと待機している。」
|