2005年3月、帰らぬ人となってしまった畏友・木元賢輔氏は、大ののファンでした。その彼女の唄う歌に(君またいつ逢える)があります。その歌詞の中に、
というのがあったはずだ、と思い、生前の何時だったか、木元さんに、伺いをたてると、すぐ折り返し、ファックスが届きました。
だよ、というのです。この句は、歌詞の初めの部分にありました。
「きれいな花は、いつまでも咲いては、いないし、いつも、いいことばかりは、あるものではない」
この哀しげなメロディーの歌詞の意味を、日本では、先人は『花に嵐』とか、標題にあげた『月にむら雲、花に風』などと美しく、風流に、表現しました。しかし、この道理は、この美しい表現とは、うらはらで、まったく厳しい現実を、いいあてております。類似の俚諺に:
「いつもいい事ばかりはない、よい事には、とかく邪魔が入りやすいものだ」
「世の好運というものは、長続きしないものである。楽極まれば変を生ずるものである」
などがあります。
中国ビジネスでは、とかく邪魔が入りやすいので要注意! 機会あるごとに足を運ぶこと、そして、相手には、いつも連絡を密にする習慣をつけてもらうこと。それを実践してもらうよう相手に働きかける努力を、常々、怠ってはなりません。都合の悪い時は、ダンマリをきめ込む、といったような類の連絡の悪さ加減は、昔も今も、あまり、たいして、変わっちゃいないように見えるからです。
ところで、『花に嵐』という言葉を聞くと、どうしても「サヨナラだけが人生だ」という、あの井伏鱒二の名訳を思い出します。その軽妙洒脱な訳と中国文を記しておきましょう。
「コノ盃ヲ受ケテクレ、ドウゾナミナミツガシテオクレ、花ニ嵐ノタトヘモアルゾ、サヨナラダケガ人生ダ」
ついでながら、筆者の好むところの、もう三つ四つ、名訳をあげておきましょう。今度は、中国文から行きます。この中国語がどうして、こんな粋で、口調の良い訳文に、できるのでしょうか。井伏鱒二のすぐれた才をまざまざと見せ付けられます。
「シュッセシヨウト思ウテイタニ、ドウカスル間ニトシバカリヨル、ヒトリカガミニウチヨリミレバ、皺ノヨッタヲアハレムバカリ」
「ワシガ故郷ハハルカニ遠イ、カエリタイノハカギリモナイゾ、アキノ夜スガラサビシイアメニ、ヤクショデ雁ノ声ヲキク」
「コンドキサマハオ江戸ヘユキャル、オレガカタナハ千両ドウグ、コレヲシンゼルセンベツニ、ツネノ気性ハコレジャトオモヘ」
「ソレハソウダトオモッテイルガ、コンナ夜フケニカヘルノカ、サケノテマヘモアルダロガ、カゼガアレタトオモヘバスムゾ」
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