中国は旧暦の正月を祝います。ですから毎年「今年の正月はいつだろう?」などと商売柄、いちいち確認することになります。ちなみに二〇〇三年は二月の一日(土)、二〇〇四年は一月の二十二日(木)、今年のトリ年二〇〇五年は、二月の九日が初一、元旦でした。
この元日を中心にした前と後のほぼ一週間くらいでしょうか、これがと呼ばれる中国では一年のうちでいちばん重要視される伝統的な祝日となります。この期間はちょうど冬の終りから初春にかけての農閑期で、過去一年間を振り返ると同時に将来一年の計を立てる、というのが長年来の農民の習慣であったようです。
「一年の計は春にあり」という俚諺がありますが、この中の《春》はこの「春節」を指しています。この期間はちょうど日本の正月風景を連想してもらうと分かりいいですね。
「一族が集って団欒する」ことをといい、「大晦日に寝ないで新年を迎える」ことを、そして「年始廻り」はなどといって、故郷(くに)ではわれわれが今もやる習慣があります。中国でも北の方では、元旦の一家団欒(だんらん)は、餃子を食べることから始まるといいます。餃子は大晦日の夜から一家総出で包み、正月の数日分を用意しておくというから壮観だ。餃子を食べるのは(一家団欒の喜び)を意味します。二日は娘や娘婿が実家に挨拶に戻ります。また麺を食べる習慣があるのは(麺)を掛け言葉に使って(喜んで互いに面と迎え合う)と縁起をかつぎます。三日に食べるのは、これは野菜や肉を餡に入れて焼いた半月形の餅、(仲良く楽しく)を意味するということです。ほか正月風景といえば、今や都会では禁止されてしまいましたが、田舎町へ行くとあの強烈な爆竹を鳴らす習慣がまだ見られます。あの激しい音を聞かないことには正月気分になれないという中国の友人もいます。
標題にあげた「二八(にっぱち)の涙月」ですが、商売を営む者にとって、二月と八月の月は最も遣り繰りの苦しい月であることを謳(うた)ったわが俗諺です。これは正月やお盆の時期には金が出ていく一方で、入って来る金が少ない時期というところから来ています。これに類する言葉は中国にもありました。(湖北)です。「清水」は、しみず、きよみず、と日本語読みにしてみるとなかなか風流な字面に見えますが、(収入のない、貧乏な)の六月、これは、つまり商売の出来ない月が六月であることを表現しています。
河南省鄭州にある桐材の工場をあちこち廻った時のことでした。行く先々で、『労働者が農作業で工場を休んでしまうので一部工場を停めざるを得ないんですよ』とぼやく工場長らに出食したのには驚かされたものでしたが、それがちょうど六月の半ば頃のことと後で思い当たりました。
(湖北)
「三つの六月を辛抱できて、はじめていっぱしの店といえるものだ。」
こうみると中国での"涙月"は六月ということになりましょうか。
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