深沢俊太郎

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休 憩 室:中国の春画絵師たち

(ちょうもうふ)
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 明末清初ころの小説に『肉蒲団』(李笠翁著 伏見冲敬訳−−第一出版社刊)というのがあります。かつて「小説の奇なる、肉蒲団より奇なるはなし」と評せられたこの小説は、判読して今なお“天下第一風流小説”の称に背かないものがあると筆者は思いますので、お薦めの書籍、また是非復刻、文庫本化してほしい書籍として記しておきましょう。この小説の中に趙子昴(ちょうしこう)(1254〜1322)という春画を描いた元朝初めころの書画家の名が実名で出て来るくだりがありますので、その箇所を少し多めに引用させていただいた上で、中国の春画を描いたといわれる主だった絵師たちを紹介していきましょう。まずは「肉蒲団」第三章の一部を伏見冲敬氏による名訳で賞味あれ。

「さて玉香お嬢さんは容姿は並びない美しさでございますが、風流ということが解からないものでごさいますから、このお婿さんには少々物足りません。

 日頃お父様の教えはやかましく、お母様のしつけが厳しいものでごさいますから、耳には淫声を聞かず、目には邪色を見ず、読むところの本は「烈女伝」でなければ「女孝経」という風でございますので、どうも粋好みの未央生とうまが合わないのは無理もございません。立ち居ふるまいも道学者の父親そっくりだものですから、未央生は彼女を「女道学」とあだなをつけました。ちょっと冗談をいっても顔を真っ赤にして逃げて行ってしまいますので、風流話などとてもできません。

 元来未央生は昼間の仕事が大好きでございます。明るいところでいたしますと一段とおもしろいものでございますから、幾度か引き寄せて帯を解かせようといたしますが、その度に大声で泣き叫んで、まるで強合(むりどり)でもするかのようでどうにもなりません。夜なべともなればまあおつとめだけはいたしますけれども、それもおとなしくしているというだけで、中庸の道を行なわせるばかりでございます。新手を用いようといたしますともういけません。山を隔てて火を取ろうといたしますと、夫に後を向けることは出来ませんといいますし、蝋燭を倒澆(とぼ)そうとすると、夫に網を打ちかけるようなことはいけません、とどうしても承知しません。彼女の両脚を肩にのせるだけでさええらい苦労でございます。またたけなはの頃になりましても、死ぬの活(い)きるのと叫んで彼の軍威を助けることもいたしませんし、「心肝(いとしい)」「命肉(かわいい)」と呼んでも唖(おし)のように黙りこくって返事さえいたしません。

 未央生は彼女がちっとも気持ちを動かさないものでございますから、色々苦心したあげくに一策を思いつきました。

 或る日町の書画屋から一冊の春宮冊子を買ってまいりました。これぞ近世一代の大家趙子昴(ちょうしこう)先生の傑作でございます。中に三十六幅の画が収めてございますのは唐詩の三十六宮都是(みなこれ)春になぞらえたものでございます。(都是(みなこれ)春は筆者加筆)

 未央生はこれを持ち帰って、玉香に男女のむつごとの色々な手だては自分が始めたのではなく昔から行なわれていたもので、その証拠には現に趙子昂先生の直筆にさえあるではないかと見せてやろうというわけでございます。

 玉香は何も知らないものでございますから、この本を手に取って最初の頁を開いて見ますと「漢宮遺照」と四文字が書いてございます。
(漢の宮殿の中には、大勢の賢妃淑媛がいらっしたというから、これはきっとその人達の絵姿を写したものに違いない、どんな風をしていらっしゃるんだろう……)
と思いながら三頁目を開きますと、一人の男が婦人を抱いて精赤條々(まるはだか)で築山の上でなにやらしているではありませんか、玉香は忽ち顔から火が出るようになってしまいまして、
「こんな嫌らしいものをどこからお持ちになりましたの、お部屋に置くのもけがらはしゅうございますわ。ねえやにあちらで焼かせてしまいましょう」
とすぐにも破きかねまじい勢いでございます。未央生あわてて止めて、
「これは大切な名画で百両もするものなんだよ。友達からちょっと借りて来たんだがお前が百両のお金を弁償するんなら焼いてしまってもいいけれど、それが出来ないならまあ二三日私が見る間お待ちなさい」 となだめます。玉香はまだ、
「こんなけしからんものをご覧になってどうなさいますの」
といきまいています。未央生ここぞと、
「これは決して怪しからんものではないのだよ。若し怪しからんものだったら趙子昂先生ともあろう方が何でお書きになるものか。それに又高いお金を出して買い求めて大切にしている人もないわけだろう。

 この事というのは天地開闢(かいびゃく)以来一番大切な事だからこそ、文人墨子は丹精をこらして書き、求め得た人々は綾絹で表装して大切にしておいて、後々の人のお手本に見せてやるのだ。そうしないと陰陽交感の理は段々と忘れられてしまって、将来必ず夫は妻を捨て妻は夫に背くようになってしまい、遂には生々の道も尽きて人類は亡びるようになってしまうのだ。

 私が借りて来たのも、自分で見るだけでなく、この道理をお前に知ってもらって、ご先祖のために後継をもうけるように、またお前の野暮なのも少しなおしてもらおうと思ってのことなのだ。お父様だって私達の間に子供が出来なかったらどんなにご心配なさるだろう。お前何もそんなに怒ることはないんだよ」
と力説いたしますが、玉香はまだ信じられません。
「わたしこんなおしごとが真面目なことだなんてとても思えませんわ。だって真面目なことだとしたら、どうして神様が最初人の道をおさだめになるとき、昼間大っぴらにするようになさらずに、夜中に人に隠れて盗みでもするようにこっそりおさせになるようになさいましたの、これが真面目なことでない何よりの証拠ではございませんか」
「あはゝゝお前がそう思うのは無理もない。それというのもお前のお父さんが悪かったのだよ。お前を家の中にばかり閉じこめておいて、世間の女達の風流話など耳にも入れさせなかったものだから、とうとう世の中のここも知らないし人の道にも暗くなってしまったのだ。

 お前はどこの夫婦でも昼間は仕事をしないと思っているようだが、どうしてどうして、どの夫婦だって仕事というものは大っぴらに平気でやっているんだよ。

 若し夫婦が昼間行なわないんだったら、絵かきはどうしてこういう色々な手かずを知り、どうしてこれ程神に入る写し方をして見る人の心を動かすことが出来るのだい?」

と、引用が長くなりましたが、オボコ娘を徐々に「女」に仕立て上げていく男の手練手管ありのこの小説自体の面白さもさることながら、「山を隔てて火を取る」《隔山取火(グーシャンチュイフォ)》(仏壇返し、大渡し)とか「蝋燭を倒澆(とぼ)す」《倒澆蝋燭(ダオジャオラァヅゥ) 》(騎乗位の「つり橋」)などと主だった中国の性態位用語もこの小説には随所に出て来たりしますので、この方面の研究者にとっても一見の価値ある書といえましょう。とまれこの中から元朝(1280〜1368)初めころ(日本では北条時宗のころ)の書画家がすでに春画を描いていたことが分かっていただけたと思います。まずその趙子昴(ちょうしこう)先生から登場願いましょうか。

(ちょうもうふ)(1254〜1322)湖州(現浙江省)の人。字は子昴(しこう)、号は松雪道人。宋太祖趙胤の十一代目の孫に当たる。至元23年(1286年)に程鉅夫(1249〜1318)の推薦で入朝、官位は、経籍を刊行編修し、忘れ去られたり捨てられてしまった書籍を捜し求めることを掌る「集賢直学士」にまでになり、延祐(1314〜1320)間には「翰林学士」も勤めた。山水、水石、花竹、人馬を描くのを得意とし、画法は精緻、書道の技法で木石、花竹などを描いた。山水は董源(?〜962−−五代時の画家)、巨然らの画風で、人馬は李公麟(1049〜1106−−北宋画家)に学んだ。書で名を成し知られ、「元代の名手」と評された人物で、殊に篆書にすぐれ、行書と小楷は力強く美しく、その書風は“趙体”と称賛されました。また「趙子昂の家計簿」という話が記録に残っており、家庭用の家計簿を自分でこまめにキチンとつけていたといいます。それがなんと料理に使う麺粉とか黒豆の類で、百斤とか百石とかいう数字まで細かく書いてあるのが尋常ではなく、変わっているところといえます。


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