深沢俊太郎

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ごうりきみちのぶ著「まっくらけ」!


深沢俊太郎の部屋
Shuntaro Fukasawa
ごおりきみちのぶ詩集


■坑夫口説き語り「まっくらけ」

〈伝説〉

  シンコの沢伝説
  私の炭鉱こだわり史

シンコの沢伝説
〈一〉
坑夫長屋の裏はずれ
ずりの埋立地は
その昔 深い谷沢で
シンコの沢と呼ばれていた
明治の世に 夕張炭山第一新坑という
炭掘り坑口があったから
誰がいうともなく
シンコの沢 と呼ぶようになったという

昭和の世の十三年十月六日
突然に 天竜坑の坑口が
ガス爆発の火を噴いた
十二尺の坑木をマッチ棒のように
坑口から天空にはねとばし
坑夫百六十一人の生命をふっとばした

あまりにも多すぎた坑夫の遺体は
またも シンコの沢に
仮の火葬場をつくらせたという

にわかにシンコの沢は
雑木が切り倒された谷地はけづられ
荒土が盛られ杭が打たれ
仮の火葬場がつくられた
荒板造りの棺箱が
数えられぬほどに並べられ
杭木を割った薪を積みあげ
読経とすすり泣きが
シンコの沢に重く沈み
仮の火葬場の四方から火が放たれた
煙があがり 火炎があがる
激しく薪がはぜかえると
悲鳴と怨みと嘆きと
怒りの叫びがこだまして
炭坑の地獄絵の狂乱は
一昼夜絶えることなくつづいた
坑夫の骨噛み葬儀が
いく日もつづいた炭坑に
親なし子と後家の住みつく
後家長屋が多くなったという


いつの日からか
坑夫治助の後家さんが
乳飲み児を背負い
金壷まなこを光らせて
シンコの沢に立っていたという
人の噂が長屋に流れて
みぞれ降る十二月
よろぼう親子二人が
柳の下で首をくくったという
それから 首吊り怨霊が二つ
シンコの沢に住みつき
雪が吹きこむ坑夫長屋の
冬の茶飲みばなしに
首吊り怨霊ばなしが
いく度となくくりかえされた

暗らい噂の年が明け
灰色の雪が融けて
春を告げるニシンの焼ける
香ばしい匂いが長屋の軒先に流れ
春を呼ぶ坑夫の児らが
泥んこ遊びに熱中する頃
首吊り怨霊の噂ばなしも絶えかける頃
シンコの沢で
狐捕りの市三が姿を消した
つづけて
馬追いの和吉が姿を消した
二人とも
雪融けの水の溜りよどんだ
シンコの沢の深みに
浮いていたという
その夜 二つの青い燐光が
シンコの沢の底から
からみあい浮びあがってくるのを
見たものがいたという

首吊り怨霊がとりつくと
誰からともなく
シンコの沢の伝説となって
語りつがれて
とりつくものと
とりつかれるものとの
むごい歴史がシンコの沢に根強く残り
秋の十月に誰れが運ぶのか
赤いこわ飯盛ったさん俵が置かれ
そこには いつも
透明な首吊り怨霊が
しのびさまよっていたという

〈二〉
ヤマの坑夫が戦場に駆り出され
無法非道な強制連行の朝鮮人らを
なれぬ炭掘り稼ぎの強制労働に追い立て
女坑夫を産業戦士の美談で復活させる頃
休坑していた第一新坑は
長良坑と坑名も改めて
炭掘り増産を押しつけられた
新生長良坑の坑口から
運び出される石ずりは
いつの間にかシンコの沢を埋めたてて
ずり山は日ごと高くそびえて
空高く突きあげていった

息子を戦場に駆り出された
市三と和吉の後家さんは
シンコの沢の埋めたて工事に
トロッコ押しの日銭稼ぎに追われ
ずりの埋立地にレールが延びた
その先はシンコの沢の下
選炭場のずり明け場まで延びて光った
もう一つ 引込み線から延びたレールは
ずり山へとつづいて
ずり山が確実に
天空に高くそびえつづけた
侵略の深みにはまった戦争は
北と南の玉砕がつづいて
本土空襲と原爆投下の
敗戦で終止符を打った

メガネと猫背の生神人が
〈 玉音放送 〉したら
炭掘りの支配者は腰抜けになり
炭掘り坑夫は労働組合をつくり
炭掘りの生産管理をしたら
パイプと黒メガネのアメリカ人が
汽車と船を動かすために
炭掘りをつづけろと命令した
焼跡の都会から
失業者と引揚げ者と復員兵が
炭掘りの加配米を求めて
炭掘りのにわか坑夫に転職した
ずりの埋立地の朝鮮人寮は
にわか坑夫の着山寮に再生される頃
狐捕りの息子昭市が
びっこを引いて復員した
それから一年の後
馬追いの息子の和男が
シベリヤから帰国した


シンコの沢の埋めたては
再び くりかえされて
首吊り怨霊ばなしなど
喰うために追われ忘れられ
男は炭掘りの賃上げストに明けくれ
女は食糧買出しと畑造りに熱中した
だが ただひたすらに
炭掘り稼ぎに明けくれる男たちに
首吊り怨霊は人目につかぬように
ひっそりと取りついて
誰もが気づかぬうちに
ひっそりと取りついていた

シンコの沢の伝説の
透明な首吊り怨霊は
炭掘り坑夫の後を追い
どこへでもついて行く
コンクリートのアパートに
赤い半月が昇る夜ふけ
長屋から長屋へと渡り歩いて
夏の夜の子供らの
連発花火のひらめきに
呼びよせられてくるという
だから 首吊り怨霊は
年ごとの夏の花火を
ひっそり待ちわびていたという

〈三〉
時が流れた雪の日に
突然 二月の低気圧は
冬の雨を呼んだ
その上 地底のガスまで誘い出し
予期せぬガス爆発を誘発して
坑底に火を走らせた
鋼鉄製の鉄柱カッペは
アメン棒みたいにねじ曲り
炭掘る坑夫 六十二人の
生命がふっとんだ
炭掘り坑夫の骨噛み葬儀がつづく時
誰が語り出したのか
シンコの沢伝説が人の噂に流れ渡って
びっこの昭市が死んだのも
シベリヤ帰りの和男が
ガス中毒になったのも
首吊り怨霊が取りついたからと
噂に流れたむごい歴史の
シンコの沢伝説が
よみがえり語りつがれた

六十二人の初盆の朝
シンコの沢の柳の幹に
わら人形が一つ
心臓つら抜く釘一本
打ちつけてあったという
それから いく日がたち
ガス中毒で腑抜けになった
シベリヤ帰りの和男が
シンコの沢の柳の下で首をくくった
その夜 二つの怨霊の火が
ずりの埋立地でからみ合い
とび交っているのを
見たものがいたという

首吊り怨霊が住みつく
シンコの沢伝説は語りつがれて
むごい歴史がシンコの沢に根強く残る
雪融けぬ二月の末に
誰が運ぶか 赤いこわ飯盛った
さん俵が置かれていた

暗い坑底の死はいやだと
首吊りの死いやだと
炭掘り坑夫に遺伝する
金壷まなこを光らせて
暗いシンコの沢の深みの
重たい伝説切り捨てて


炭掘り稼ぎも見切りをつけて
炭掘り坑夫の孫たちは
石油くさいプラスチックみたいな
ペカペカした見知らぬ土地へと
追われ追われて渡り歩いて行く

首吊り怨霊忌み嫌い
怨霊たたると氷の刃をむけたのが
炭掘り坑夫であったなら
それをふりむけさせたのは誰れなのか
暗闇の坑底に火を噴かせ
シンコの沢に
仮の火葬場をつくらせ
カネ打つ念仏衆の背後にひそむ
黒子姿の正体誰れなのか
重たい伝説やりきれなくも
怨霊たたりのなぞを解く
裁きの骨噛み葬儀は誰がする

坑夫長屋の裏はづれ
ずりの埋立地は
遠い昔 深い谷沢で
首吊り怨霊の重たい伝説語りつがれる
むごい歴史を背負いつづけて
ずりが埋めたてられて
死にかわり生きかわり
生きつづけた炭掘り代々語りつがれた
シンコの沢の伝説は重い

朽ち倒れた空き屋だらけの
坑夫長屋の裏はづれ
ずりの埋立地は
今は むかし
ひそかに語りつがれた
シンコの沢伝説の
怨霊ばなしは風化して
二匹のキツネが
とびはねたわむれていた

私の炭鉱こだわり史
  ――あとがきにかえて――
 私の生れ育った夕張のヤマは、私にとってどんな意味があり、どんなかかわりがあるのだろうか。私は自分の中に在る坑道をたどり歩いてみるとき、それをどう理解したらよいのかととまどい、こだわりを抱きつづけている。
 私の炭鉱へのこだわりは、少年期の角田鉱から始まる。角田鉱は栗山町の新二岐から約四キロ奥にある小炭鉱で、北炭平和鉱業所に属するヤマであった。私を育ててくれた祖父は、そこで火薬庫番をしていた。昭和十七年四月に、私は角田鉱から新二岐にある日の出国民小学校に入学し、通学した。
 三年生の時だった。角田鉱に強制連行された中国人労務者二九〇余人が入山した。その時のヤマは、なんともいえない緊迫感に包まれていたことを妙にはっきりと記憶している。炭住の長屋から遠く離れた処に在る中国人宿舎の周辺には、バラ線が張りめぐらされ、数匹の番犬がいた。山ブドウの実のよく採れる沢がその近くにあったが、それ以来、子供たちの近寄りがたい所になってしまった。
 近所に子供好きの心優しい小父さんがいた。この小父さんが中国人を使役する係員になった。彼は毎朝ナンバンやニンニクをポケットに入れて出勤した。ムチで殴るのが嫌で、ナンバンやニンニクを与えて使役したという。私は小父さんに、本当に殴らないのと聞いた。彼は黙っていたが「いやでもな、殴らんならん時もあるよ――」と云うと、悲しい目をして行ってしまった。子供心にいらぬことを聞いた自分を心から恥じた。
 その年の冬から、私は教室の窓から中国人の死体を焼く野天の火葬場からのぼるうすい煙を、度々眺めながら、悲しい目でムチを振る小父さんを思い出していた。その時から始まったこだわりは、国のために石炭を掘ることが、真実正しいことなのかどうか判らなくなり、少年の私を悩ませた。だが、それを大人たちに聞くことは出来なかった。
 その後、私たち姉弟は祖父に連れられ親類を頼って、私の生まれた夕張に戻った。祖父や親類の人達のお陰は当然だが、ヤマの長屋暮しの中で、親なし児の私たちは長屋の人々の様々な世話を受けて成長したともいえる。特に末っ子の私は遊び疲れると、長屋の年寄りたちの家に上りこみ、ふかし薯か何かの食べ物を貰い、ヤマの昔話や年寄りの坑内稼ぎの自慢話や失敗談を聞くのが面白く、彼らの話の方が、学校で時々聞かされる校長や炭鉱長の話などよりも、真実間違いのない本当のヤマの姿を物語っているのだろうと思った。私はこのヤマの語り部たちの聞き手となって育った。そうした長屋育ちのせいか、炭鉱の誇らしげな歴史にいつしかこだわりを抱くようになったのかも知れない。
 青年期の私は、炭鉱で働きながら人並みに文学や演劇・絵画に興味をもち、その仲間と交友をもち、その創造的活動をいくつか体験した。また、労働組合の中で多少の労働運動も体験してきた。そうした体験の中で、私はごく単純に、石炭を掘る仕事が、労働の喜びや生産の喜びへと、何故結びつかないのかとこだわりを強く抱くようになった。それが私の思考の根底に、ある重さをもつようになった。私のつたない作詩や文章にもそれが表出するようになった。
 私の作る詩は、素直にいって一、二、三の四(詩)のようなもので、三等までなら入賞だが、四等の詩ではほめられもしないが、自分の想いを勝手気ままに表出することが出来る。また、炭鉱で働いた賃金で生活している自分が、どうして炭鉱にこだわるのか、そのこだわりを少しは表出できればよいと思った。だが、詩想にもポエジーにも乏しい拙作は、とても人前に表出できるものではなかった。ただ、好きな詩人の作品を真似たにすぎないもので、気恥しく卑みを覚えるものばかりである。ましてや暗闇の坑底に汗して働く坑夫仲間には、腹のたしにもならんと一笑のもとに吹き消されてしまうものだ。貧しい坑夫のゼイタクな心の遊びにすぎない。ひそかな心の遊びにすぎないものでも書きたまれば投げ捨てるにはいささいとほしくなり、ふと小冊子にしてみる気になった。だが、やはり坑夫仲間には気恥しく卑みを覚え、こだわりの詩集である。
 炭鉱に働らいて三十年、この間に多くの事故災害・閉山に遭遇してきた。特に、夕張新炭鉱の災害と閉山では、私の精神と家庭をはげしくゆさぶられる大きな衝撃を受けた。そして、ふたたび多くの仲間たちを失った。
 にわかに失業者となった私は、ヤマを離れて職を求めるべきかどうかと迷い、就職にあせり、職安に通い、黒手帳生活をつづけた。どうやらつてを頼って近隣の炭鉱に職を得てふたたび坑夫モグラに戻った。その時の想いは、ほっとした安心とも、またかという気落ちともつかない妙な心もちだった。この間、職探しに右往左往する私を毎日見ていた妻は、何も云わずに黙って見守っていてくれた。また、進学を望んでいた次女は、進学を断念し自分で職を探して就職した。この間の私の家族にかけた多くの心労に対して、私は表出しえない自責を強く感じながら、時を過していた自分を心から恥じるよりほかにないと思っている。
 いつからか、ヤマの歴史にこだわりを抱くようになった私は、人並みに郷土・わが夕張を想う心を自分に問いかけてみたことがある。だが、それは無意味なことだった。夕張に生れ育ち、三十年も炭鉱に働らきつづけていながら、私には郷土を想う心などあるはずはないからだ。
 私は働く現場の坑内災害を常に恐れ、ヤマの閉鎖性を嫌い、ヤマから逃げ出すことばかり思いながら、脱出も出来ずに、坑内をひたすらに嫌い、憎しみ、こだわりを抱きつづけた。しかし、そのくせヤマの長屋暮しのあったか味に包まれ、居ごこちの良いぬくもりの中にひたり、原始的な人間の交り合いの中に埋没しつづけている自分の矛盾した姿を発見する結果に終った。
 私の父母は、郷土を棄てて家族を連れ、満洲に渡った。父は異国の炭鉱で働らいた。しかし、母は病死し、父もまた異国の坑底に倒れた。残された幼ない私たち姉弟は、父母の棄てたヤマに残っていた祖父に引きとられ、育てられた。後年、私はヤマから逃げ出すことばかり思いつづけながら、何故、父母は郷土からの脱出を企ったのかと考えた。そして自分は何故、いつまでもヤマに居残って、ヤマにこだわりを抱きつづけているのかと不思議な想いにとらわれた。
 ヤマの生活や坑内労働だけでなく、私には周辺の風景までが気にいらなくなることがあった。ヤマの風景は、私の脱出をはばむ透明な壁にみえた。永い冬の季節にも敵意を抱いた。風景を眺める目には、確かに人の心の屈折がある。人の目を通さない風景はない。ヤマの風景は厳しい。ヤマの風景は美しいものとは決っていない。ある時、ふっと美しいと感じるだけなのだ。  のっぺらぼうのずり山は、私の望みをはばむ憎い奴だった。私には少年の純朴な心はもてなかった。もの悲しいひねくれ者の目で眺めたヤマの風景なぞ、ろくなものではない。だが、そのヤマの風景を眺めているうちに、いつかふっと、「出られぬ」から「出てやらぬ」に変る時があるかも知れない。その時に、新しい道の発見があるかも知れないと思った。しかし、その新しい道の発見は、いまだになく、炭鉱にこだわりを抱きつづけているだけである。

まっくらけ――坑夫口説き語り――
著者  ごおりき みちのぶ
発行  一九八五年六月五日
発行所 群鴉社
    夕張市清水沢清陵町二区
印刷所 白楊印刷株式会社
    岩見沢市五条西一丁目

以上全編、著者の了解を得転載す。
弐千壱拾七年七月七日 深沢俊太郎


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